大聖寺付近の歴史散策
学部生(4名)と院生(3名)とともに、一部区間ジャンボタクシーを貸し切って、石川県南部に位置する大聖寺付近の歴史散策に出かけました。
北陸新幹線は北から延びてきましたが、明治時代の鉄道敷設は南から。それゆえに石川県の近代化遺産、近代建築などは、加賀藩の支藩、大聖寺藩があった大聖寺付近にもたくさん点在しています。
主な見学先は、以下通り。
石川県久谷焼美術館(象設計集団)
北前船の里資料館
加賀市加賀橋立(伝建地区)
忠谷家住宅(重文)
無限庵
那谷寺(護摩堂・重文)
尾小屋鉱山資料館
石川ルーツ交流館
呉竹文庫
石川県と福井県の県境に近い県南部の大聖寺、動橋などは、昭和の大火まで山中温泉、山代温泉、粟津温泉、片山津温泉などの加賀温泉郷とを結んだ狭軌鉄道への乗換駅として栄えました。いずれの鉄路も、高度経済成長期にモータリゼーションの波に押され、廃線になっています。
最初は、徒歩で大聖寺駅近くにある石川県久谷焼美術館へ。
設計は、象設計集団(富田玲子)。2001年の作品。周辺のランドスケープを含めて、象らしい地形に沿った配置と配色。手工芸感が焼物の美術館とマッチしていて、コンパクトながら魅力的な建築でした。
そこからはジャンボタクシーに乗り、海沿いにある、かつて日本一の富豪村と言われた船主集落、橋立町にある北前船の里資料館へ。資料館は、6隻の北前船で巨万の富を築いた酒谷長兵衛の豪勢なお屋敷。赤瓦が美しい、加賀市加賀橋立の伝建地区を散策し、重要文化財である忠谷家住宅の外観を見学。再び車に乗り、山中温泉にある無限庵に向かいました。
明治時代は、物流が海路から陸(鉄)路に大きくシフトしていく時代。北前船で莫大な財を成した船主たちも業態の変革に迫られ、農作物の強力な肥料であったニシンを海運で北海道から運んだ繋がりを生かして、農業用肥料を売り始めたり、鉄道駅ができれば駅前に倉庫を建て、倉庫業を始めたりしました。ただ、鉄道の延伸や周辺都市が発展すると下車駅が変わったりと、人の流れと経済活動の盛んな地点が次々に移動し、こうした新規事業も多くはそう長続きしなかったそうです。
また、昭和の大聖寺と動橋の特急停車駅誘致合戦は、なかなか綱引きの結果が出ず、上りと下りで停車駅を分け合ったりしましたが、結局、業を煮やした国鉄が両駅の中間にあった駅を加賀温泉駅に改称し、そこを特急停車駅とし、いまや新幹線の停車駅にまでなってしまったことは有名な話。
金沢大手町にあった横山鉱業部(金澤電気軌道『金澤電車案内』(1917)より)
明治維新の廃藩置県は、武士の生活も一変させました。加賀八家のひとつ横山家の横山隆興は、鉱山開発で財を成し、昭和初期まで北陸の鉱山王と呼ばれました。山中温泉にある「無限庵」は、その横山隆興の息子、横山章が残した大正時代の近代和風建築です。
今回は、通常非公開である無限庵の二階で茶懐石を頂き、食後にお抹茶を頂きました。
そして那谷寺を参拝して、横山鉱業部の主力鉱山があった尾小屋鉱山資料館へ。ひたすら山の奥深く。現在は完全閉山されており、アリの巣のように全長160kmも掘られた坑道のうち、僅か数百メートルだけ自由に立ち入ることが出来ます。なかなか強烈な湿度と形容し難い不思議な香り。人感センサーで照明が付くため、夜でなくてもひとりで歩くのは、ちょっと勇気がいりそうな雰囲気でした。
小松の山側は、銅が豊富に産出したことから他にも遊泉寺鉱山などがあり、いまや業界世界第2位の重機メーカー小松製作所も、こうした鉱山の機械部が独立、発展していったもの。
山を下りてからは、しばらくドライブを続け美川方面へ。石川ルーツ交流館と呉竹文庫を見学。石川ルーツ交流館は、明治5年、最初に石川県庁が置かれた場所。最初から県庁所在地が金沢にならなかったのは、当時の交通網や地理的には県の中央だったからとか、倒幕運動の際の藩としての立ち位置が影響したとか、明治新政府が旧加賀藩の弱体化を狙ったとか、諸説あり。手取川の河口付近を徒歩で渡河して向かった呉竹文庫は、旧北前船主で実業家であった熊田源太郎が大正期に開設した私設図書館。洋風の書斎もあり、明治中期に建てられた土蔵内の本棚には、熊田の古い蔵書がずらり。まだまだ地域や身分によって知識の共有に差があった時代、常識にも差がある中で、書籍による知識層の拡大と汎世界的な知の共有に努めた熊田の柔軟な姿勢は、石川県の近代化にとって大事な活動になったことでしょう。丸一日かけて、石川県の近代のはじまりを見て周りました。
勝原